今日は礼拝の日。レジがメッセージだった。最初のほうで、2人ずつになって、少しの間(10分ぐらい)互いの、現在のチャレンジ事項について挙げてみる、ということをした。私たちには通訳も兼ねて、アグネスとピンピンが入ってくれて4人となった。
アグネスは、少し前は家庭の経済不安が問題だったけど解決して、その後の地元のカトリックの人たちによるクリスチャン(プロテスタント)への嫌がらせがあって、公立校の教師の職を奪われる危機にも直面したが、それも解決して、今は次のチャレンジ事項を持っているところだと笑っていた。ただし毎日義理の両親とはいろいろぶつかることが多くて大変ではあると言っていた。
それらの問題については私も以前より聞いていて知っており、励ましたり祈ったりしていた。でもそういう中でも彼女の場合、というか、こっちの人の場合、あまり深刻そうな感じもせず変わらず明るいのが良い面だと思う。
ピンピンの場合は来月初の出産を迎えており、陣痛が怖い、出産が今のチャレンジでとても不安だと言っていた。女の子だそうだ。お腹が最初から前にバーンと出ていたので私は男の子かなと思っていたが。
彼女らは私たちに、あなたたちは外国で暮らしていろいろな大変なことやチャレンジ事項があるでしょう? というので、ちょっと考えて、私たちの場合はやっぱり言葉かなぁと伝えた。
今、外国人は月1巡回のパスター・ソン夫妻以外はわれわれ日本人2人だし、こっちでは基本ビサヤ語だから、アグネスがいつも気を使って通訳してくれたりもするが、言葉がビサヤ語で自由に会話できるほどのレベルでないのと、メッセージを聞けるレベルではないことで、奉仕その他に参加して他のみんなに貢献できる以前に、そうやってお世話になってばかりいる。
今日も明るくて親切な若い彼女らに通訳や解説してもらって、ありがたいなぁ、うれしいなぁ、となんかおばあちゃんになったような気持ちで聞いていた。ただ、ビサヤ語の件はもっとダイレクトにコミュニケーションできれば楽しいのになという自分自身の願いである。
レジのメッセージの中で、うちの教会にとってのチャレンジは、専任・フルタイムの牧師が居ないこと、皆社会人で仕事している立場なので、動ける時間が限られていること、バイブルスタディで教える人がもっと必要だし、とにかく何事も人手が足りないのがチャレンジ事項ですと言っていた。
それから、真にチャレンジを乗り越え打ち勝つためにはイエスさまを信じていること、イエスさまと共に進むということがまず必要(前提)であるということ。大きなチャレンジを神様によって乗り越えていけたら、その得るものもまた大きいのだから、自分に与えられた試練を避けていてはいけないということだった。
最も大きなチャレンジ(十字架による全人類の罪のあがない)に向かわれ、打ち勝たれて、最大のもの(全ての人に救いを与えること、神の右に坐されたこと)を得られたのもイエスさまだった。
ああ、本当にそうだなぁ、われわれのチャレンジ(大抵は自分の生活や周辺事項であることが多い)とは全くレベルの違う大きい試練に遭われ、それを受けられたのがイエスさまであって、それがどれだけ大きかったのかすらわれわれにははっきりと理解できないくらい大きい、ということを思い返し、涙が出た。
そのおかげで私たちは救われたのだ。私たちの救いは100%イエス様の成し遂げてくださったことの上に成り立っており、ただただ何の代価もなくタダで頂いただけのものなのだ。
礼拝後、誕生日で3歳になる女の子の祝福のためにお祈りした。前に出てきて祈ったのは小学生以下の小さい子たち。子どもがさらに自分より小さい子のために祈るというのも麗しい。
あと、アーロンが2週ほど来ておらず、家族が皆引っ越していって精神的に落ち込んでいるようだ。詳細は分からないけど、そもそも2年前には祖父を亡くし、その次に同居していた祖母を亡くし、両親が引っ越し、兄弟・甥が引越しで、振り返れば立て続きの喪失でもある。一つずつというより、その全体の流れで今になってどっと落ち込んでしまったのかもしれない。お祈りやテキスとなどしているが、まずは神様の癒しがありますように。