放蕩息子のたとえ話

今日のガムさんによる礼拝のメッセージは放蕩息子のたとえ話だった。イエスさまがたとえ話として話された、父と2人の息子の話。非常に有名な箇所で、いろんな切り口から考えさせられる箇所でもある。

ときに、父親の気持ちを考える立場になったり、放蕩息子である弟の気持ちになったり、弟をさげすむ兄の気持ちになったり、どの人も放蕩息子的な要素と兄的な要素があり、誰にでも当てはまるたとえだともいえる。
エスさま自身が語ったたとえ話は聖書に数多くあり、どれも実に無駄なく簡潔に語られている。人の言葉を超えた神の知恵のことばとしか言いようがない。

理解力も学もなかった弟子たちに向けて分かりやすく、いろいろなことを例えて話されたのだが、いずれも神の国、救い、神のご性質について述べられている。

この放蕩息子のたとえに出てくる父親は、聖書の神さま(天の父なる神)を表している。
放蕩息子は罪を悔い改め父親の元に戻る人=すなわち罪ある人間が神の救いを求めて悔い改め、神の元へ帰ってくることを表している。
放蕩息子の兄は、父に長年忠実に仕えていたいわゆる出来の良い息子だが、放蕩息子である弟を父が受け入れ歓待したことに嫉妬し、赦せない思いを抱いている。

この兄と弟は、ユダヤ人と異邦人を表しているともいえるし、クリスチャンとクリスチャンになった人(なりたての人、というべきか)を表しているともいえる。
クリスチャンは日々の生活の中で、時に弟的であり兄的でもある自分をたびたび発見することになると思う。

ただ、この物語の中心は兄弟ではなく父親で、イエスさまは天の父なる神さまはこのようなお方であるということを弟子に話したのだった。そのためのこのたとえ話だ。
私たちが生きている間にはすべては分からないが、とにかく天の神さま(聖書の神)とはこういう性質のお方なのだと、イエスさまは弟子たちに、また私たちに語っておられる。

世の中の父親像、リーダー像、偉人像、成功した人像とはかけ離れた性質を持っておられ、世の中の価値観に真っ向から反している。
私たちクリスチャンは神がどのような方で、神の国がどのようなもので、自分はこの世で、またその後の神の国で永遠にどのような身分でどのように生きるのかを聖書からほんの少しだけうかがい知ることができる。やがて天に召された後にはすべてをはっきりと知ることができる。

そこに私たちの永遠の希望があるし、しかもこの希望ばかりは誰にも奪われることがなく、世の中でどんなことがあっても、どんな目に遭っても奪い取られることがない希望だ。

よく、人はすべてを失っても希望があれば生きていける、というようなことを聞くが、それは確かにそうだ。ただし、その希望がどんな希望なのか、それがまず重要ではないかと思う。



放蕩ヤギ息子チャオ。お父さんは死んじゃったけど