イースター礼拝雑記

今日はイースター礼拝。教会の若い人たちは地域の合同礼拝へ早朝4時に出かけていったが、私たち夫婦は参加せずグースカ寝ていた。みんな6時ごろ一回帰ってきて2度寝していたようだ。
私たちは10:30AMの礼拝から参加。今日は主任牧師夫妻(ガムさんのご両親)がカラペという1時間ほど離れた町に呼ばれていて不在、ガムさんがメッセージを行った。

サザンバプテスト・タグビララン教会

いつも気さくで音楽好きなお笑い青年のように見えるガムさん(20代青年牧師)だが、私はそのメッセージに感銘を受けた。特に3つの点で。

一つはこの教会がイースターだからといって特別な催しやデコレーションをしないことと、メッセージの冒頭に“イースター”という言葉が“エシュタル”という異教の春の女神の祭りから来ていることなどを述べたこと。イースターエッグやうさぎのキャラクターをイースターのお祝いのシンボルにしているのは聖書的根拠がなく特に意味がないことなどを述べたこと。
神からのもの、サタンからのもの(すべての分野において神の創造を悪意を持ってマネている)が現実社会でどう存在しているのかなどにも言及していた。
(私もキリスト教の中にじわじわ混じっている不純物的な事柄は明確に線引きしておくべきだという考えを持っている)

2つ目は、復活のメッセージについて、私たちが復活のイエスと同じ体を持つものとして後に全くつくり変えられることについて分かりやすく解説していたこと。聖書の中に幾人かの死人が生き返る記述があるが、それらとイエスの復活との違いを明確にしていたこともあるが、抽象的な復活メッセージではなく現実的なこととしてイエスを主と信じる私たちの後の希望をはっきり示していた。
(復活と後の希望が私たちの信仰のキモであるのに、どうも焦点が微妙にずれている教会が多いと感じるのは私だけではないんじゃないか?)

3つ目は、礼拝最後に世界で起こっている様々なことを視野に入れてとりなしの祈りを導いていたこと。
(自教会の成長、個人の必要も大事だが世界情勢を把握して的を射た祈りをしているクリスチャンは非常に少ないだろう)

単にメッセージがパワフルだということではなく(そういう人なら結構いっぱいいる)、聖書のキモをつかんで、若いのに非常によく読み込んでいる人だということがうかがえた。
フィリピンで感じるのは“霊の戦い”“サタンとその働きについて”という点を基本的によく理解しているということ。日本だとこういう解釈は教団教派で随分変わってくるが、フィリピンでは教団教派ではなく、皆が当たり前のこととしてきちんと押さえている感じがする。


(金曜日、カラペの教会で祈りを導くガム牧師)

グビラランのこの教会は今、小さい子どもも入れて20人超のメンバーしかいないが、5月には主任牧師夫妻がミンダナオ島へ新たな働きのために引っ越しする。また、20代の若い夫婦が隣のパングラオ島で家の教会を始めるので引っ越し、主要な奉仕者の青年が神学校へ行くため別の島へ引っ越しし、ワーシップリーダーの女性が自分の仕事の転勤で引っ越しすることが決まっている。

大人は15人ほどなのに、その3分の1が出ていくわけだ。日本ではなかなかないことだと思う。でもみんなそれぞれが神さまに示された道を歩んでいくことを喜んで送り出そうとしているし、人がいなくなることへの余計な心配をしていない。
人を送り出していくことがむしろ祝福につながるのだと、聖書に書かれたそのまんまの信仰が生きているからだと思う。ほとんどが20代の働き手だけれど皆本当にしっかりしているし、その様子に裏表や取り繕いがないように見える。

フィリピンはプロテスタントが3%くらいしかいないと思うが、その割にたくさん教会を見かける。カトリックと違ってどこも会堂が小さくてすごくボロイ。お金がありそうな教会は全く見ない。でも数は結構あるように思う。
そして、どこも子どもや青年が多い。そのせいかどの教会もギター、ベース、ドラム、キーボード等々があって、バンド形式でのワーシップを行っているようだ。何で分かるかというと、外からでも中が見えているし、第一、丸聞こえだからだ。
フィリピンの人は本当に音楽が好きで、仕事中でも歩いている人でも年齢関係なく歌いながらの人が多い。別に恥ずかしいという感じじゃないのだ。それで私も歌っている。