礼拝Day

今日は礼拝Day。パスター・ガミがパングラオの教会へ行ったので、今日のメッセージはレジだった。レジは早口のビサヤ語オンリーで内容が最近の自分の証しであったため、最後の結論くらいしかストーリーが分からなかった。あとでジョイミーにかいつまんでストーリーを教えてもらった。

さて、パスター・ガミが向かったパングラオの教会は、今年6月に私たちもアメリカ人教師2人をその教会へ車でお送りしたことで、一度礼拝に出たことがある。周辺の家や子どもたちがたくさん集まってスタートしたばかりだったが、驚いたことに、地域のカトリックの人たちからの迫害がひどくて早くも離散してしまったそうだ。今、別の場所で礼拝しているとのこと。アグネスとリッキーたちの家の教会もそうだが、市内よりパングラオのほうが、カトリックからの嫌がらせが多い気がする。

こちらでは結婚や離婚(法律上フィリピン人は離婚できない。法的に別れるには結婚無効の裁判しか方法がないが多額の費用と時間がかかるので庶民はほぼできない)制度もそうだが、政教分離しきっていない。カトリックがこちらの文化であり、社会福祉を提供し地域の諸ルールをも敷く存在となっている。宗教や信仰以外の事柄でもそういう次第なので、その輪から抜けて皆と違う立場を取れば家族や地域からも半ば抜けざるを得ない形になってしまう。(フィリピンの都市部では世俗化してきているだろうが、セブや特にボホールは田舎でもあるしカトリック色が強い)

大きな問題の一つはお墓問題で、現在のところプロテスタント(クリスチャン)も一部地域の墓や高額な民間墓地には入れるようになったそうだが、今もカトリックの人が例えばプロテスタント等他宗教に移った場合は、自分たちの最小行政区(バランガイ)の墓に入れないルールになっている。つまり自分の家族・親族の墓に入れない。この件は改善してもらえるようにクリスチャンたちが政府に対し署名運動をしているそうだ。

それゆえ、プロテスタント教会の聖書勉強に加わったり、イエス・キリストだけが救い主という信仰をもつ人がいても、結局その辺のところで殆どの人は恐れをなしてしまう。フィリピン人は日本人以上に家族・集団性の強い人たちだと思えるので本人にとっては大変なことだろう。ただし、このようなコミュニティ心理、ムラ心理はいつでもどこの国でもどの地域でも同様にあるものなので特別なことではないと思う。日本でもお墓問題で、自分は長男だからクリスチャンになれないというような声をよく聞いた。

聖書で神様に問われているのは、私たち一人ひとりの信仰であって、家族でもムラでも集団単位でもない。それはまさに自分自身で選ぶことで、ほかの物事の選択とは違いイエス・キリストを自分の救い主と信じるか信じないか、という選択には親や子や親戚やコミュニティは介在することができないだろう。

エス様を信じるというのは努力し理解して信じることはできず、聖書に書かれているように聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(コリント人への手紙第一12章3節) だから、その信仰が原因で迫害を受けてもまた、聖書によってどうすべきかが教えられる。そして祈りによって守られ、道が開かれることを信じる。自分の力と知恵で戦って勝たねば!というような身構えは本来全く不要なことなのだろうと思う。

元々、人と人との戦いではなく、 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ人への手紙6章12節)

■先日のふさふさチャオ