今日の礼拝メッセージ考

今日の礼拝はレジのメッセージ。
テーマは「死ぬ準備をすることを考えると共に、周囲の人や子どもたちに教えましょう」ということ。今回も再臨について触れられていた。
フィリピンの平均年齢は若いから、うちの教会なんかも子どもと20代が大半という中で、「死ぬ準備」「イエス・キリストの再臨の準備」ということをみことばからきちんと語っているのは聖書的だし素晴らしいことだと思う。しかも20代の若いメッセンジャーが。
ここで言う死ぬ準備とは、いわゆる葬式や身辺整理という意味の死ぬ準備ではなく、神の御国へ行く(行ける)準備のことを言っている。

子どもや青年だからといって、いや、子どもだからこそ死を意識したり死の恐怖を感じることもあると思う。しかも人知れず。私自身、死という誰にも等しく必ずやってくることについて何となくある日突然、恐怖したのは10歳のときだった。なんでどの人もやがて死ぬために生きているんだろうと、そういうことをずっと考えていたし、また誰にも言えなかった。だから子どもだから分からないだろうとか考えていないだろうということはないと思う。
聖書の福音についても、3歳4歳でも(難しいことは分からないにしても)本質を理解できる。人間としてフレッシュなだけに、むしろ大人より逆にいのちに関わることに敏感だったり、本質をとらえることができるのだと考えるほうが妥当だと思う。

聖書に、「神を畏れることは知識の始まり」(箴言1:7)とある。

また、「あなたの若い日に、あなたの創造者(神)を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に」(伝道者の書12:1)ともある。

私自身は生まれ育ちの中で、そういうことを知らされる機会や環境に全くなかったので結局28歳になってから知ることになった。自分の人生で唯一惜しいと思う点は、人生の初めからそのことを知っていればよかったのに、ということだ。大人になってからでも老人になってからでも、もちろん神様と出会うことは素晴らしいことに変わりはない。
でももっと素晴らしいのは、幼い時に神さまの事を知り関わりを持てる機会があること、信じることができることだと思う。人が持って死ねるのは御国へのパスポート(イエス・キリストの救い)だけで、後は何一つ持っていけないから。

■小屋の外で過ごしたサブ子とヨシ子

初めてチャコと共に小屋から離れた所に行って夕方まで過ごしたサブ子とヨシ子。跳ね回って元気に遊んだり草を調べたりしていた。

躍動感があるなぁ。シュウとガーコは本当に動きがお年寄りな子ヤギで飛んだり走ったり全くしないが、そのほうが稀だと思う。

そういえば、アグネスの所にいるチャコのお母さんが数日前に生んだ3つ子の子ヤギのうち、1匹が死んでしまったそうだ。ヤギで3つ子以上が生まれる例は少なく、ヤギのおっぱいは2つしかないので1匹が栄養不良で衰弱死したとのこと。仕方がない状況とはいえ、可哀そうだなと思う。