日本は元旦礼拝をほぼどこでもやっているがこっちは無いので、新年最初の礼拝デー。これも正月感はない。でも昨日ぐらいからそろそろ周囲の雑音がうるさくなってきた。
メッセージはパスター・ホールで、「罪の赦しと、福音によって救われた者の自由と解放」。過去にせよ現在にせよ許せないことで本人が解放されず自由にされず、いつまでも鎖で縛られたまま、前進したくてもどうにもできないという結果を受ける。という内容であった。
新年にこういうテーマを語られたのは、イスラエルの新年(ユダヤ歴の新年は9月か10月になる)10日後に行う大贖罪日に掛けてのことなのだろうか、と思えた。(*大贖罪日:断食し、自分の罪を神さまに告白し、人間関係が悪化している人と和解しに行くというユダヤ人の例祭。イスラエルの重要七大祭りの1つ。)
■マタイ6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
■マタイ18:21−22
ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」
イエス様が“7回の70倍”と言われたのは、恐らく創世記4章22−23節のカインの8代目の子孫レメクのこの言葉に掛けておられるのだろう。
■創4:23 レメクは妻たちに言った。「……私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」
この凶暴なおじさんレメクは、「自分に傷を負わせた者には1人の男を殺し、子ども1人を殺してやる。7倍返しどころですむと思うな、77倍返しの復讐をしてやるぞ!」と威嚇しているのだった。
赦しというのは聖書の中心テーマの一つであるし、自分が神さまに赦されたのだから自分も人を赦しなさいと言われている。
これは単なるケンカレベルではなく状況においては非常に深刻で難しい場合もあるが、そうしないと自分が解放されない。この件に関して自分が意志を持って赦すという主導権を取らないといけない。
もしどうしても許せない場合、やっぱりプロセスも必要で、神さまにだけはどんなことでもカッコをつけずすべてを泣き叫んで怒りながら訴えてよいし、どれだけひどい仕打ちを受けたか癒やされがたい思いをしたか、思い切り伝える。取り繕わないほうがいい。もしや神さまの声が聞こえるかもしれない。
聞こえなかったとしても、神様が私たちをどれだけ赦してくださったかを聖書からしっかり受け止めていく、例えば神のことばを読む、賛美する、詩篇その他などを読むステップからだと思う。それも、できれば大きな声を出して読む、歌うほうがよりよいと思う。
聖書の神は裏切られては民を赦す、憐れむ、恵むということをずっと繰り返されており、神様ご自身、赦し難い者たちを赦してこられている。イエス・キリストはすべての人の過去現在未来の罪を十字架での贖い一度で赦された(イエス・キリストの贖い以前の人間は父なる神様を信じる信仰によって義とされた。ex:ローマ4:3ほか)。私たちは許せない相手そのものに焦点を当てず、目を天にあげて神さまのほうに焦点を当てたい。
■チャオ
■ニャー子