“例年どおり”な教会のクリスマス

教会のクリスマス、例年であれば“とてもいいクリスマス礼拝(あるいは集会)でした……”で終わっていたかもしれない。
でも今年は違う。例年通りの状況でないのに、例年通りなことにすごい違和感がある。
教会もあたりさわりのないお悔やみ的な慰めの言葉だけを述べて、何もなかったかのようにふるまっている。私たちはどのような状況の中でもこれからも生きていくというのに、真実と向き合わせていない。
これじゃあ日本の一般社会に生きる多くの人々と同じだなと私は思った。

日本が半永久的に元に戻れない放射能汚染にあい、それを収束させるすべもないというのに、何事もなかったかのようなクリスマス礼拝なのだ。
またそれは、あえて深い意味があるようなものでもなく、単に放射能のことなど話しても軋轢を生むだけ、摩擦は避けたい、という単純な思いからの“例年どおり・何もなかった”とする妙な雰囲気なのだ。
事実を正面から見れないのは教会も(クリスチャンも)同じで“委ねてます”という言葉の裏に自分たちの臆病を押し隠してしまっている。
世に勝っているクリスチャンがこれほどまでに臆病でどうする?!
世の人の顔色、世の流れに合わせていてどうするんだよ。

現地ボランティアで人を助けている、福音を語っているから、それで何らかをしていると思っているのだろう。皆に感謝され、非難されない支援活動ならそりゃあ堂々と大手を振ってできる。(逆に、放射能汚染を訴え、避難・移住を呼び掛ければ“復興”に水差す風評被害デマ野郎だと人々から嫌われ、自治体にも追い出されることだろう)

何より不自然なのは、被災地が福島を中心とした東北だけで、東京を含めた東日本、今では日本全体(外国にも及ぶ)ものだということを全く認識していない。他人事なのだ。被災地の人たちを助ける、という視点だけがあり、自分たちが被災者であるという認識がこれっぽっちもない。
“可哀想な被災地の人助け”は喜んでするが自分は当事者ではない、という感覚なのだ。これも現実から目をそむけている極限の行為だ。

福音を語るのは教会にとってはいつどこでも当たり前のことであって、それで今回の危険性がチャラになる訳でもないし、未来永劫危険な放射能汚染のことを黙っていていいことにはならない。
本来、聖書の預言を知っているクリスチャンこそ、声を上げ、人々に危険を知らせないといけない立場なのだ。ところが一般の人以下の認識しかない。聖書の勉強と現実とを一つも結びつけられていない。

放射能汚染への認識、日本や世界で今起こっているのが戦争であるということへの認識、それはキリストに救われているかいないかに全く関わらないことが311以降の挙動・言動ではっきり分かった。もはや、クリスチャンであるからといって、正しい認識を得て正しい行動をするかどうかには期待していない。
とにかくクリスチャンであってもなくても、どんな人も真実から目をそらさずに、正しい認識を持ったうえで行動してほしいと思う。
危険はすぐそこにあることを一人でも多くの人に知ってほしい。知らないまま、無知なまま殺されないでほしい。

日本の同調圧力は本当にひどい。摩擦が起こることを許さない空気を国全体で作っている。
危険を訴えている人たちが言っていることだが、今の日本人の真実からの目のそむけ方、もうそれ自体が放射能汚染による脳障害の表れなのかもしれない。
放射能汚染の危険を認識しており、自身や子どもに健康障害が出て悩んでいる人でさえ、思考停止して動くことができないという奇妙な現象が起きているという。
つまり、放射能による脳障害が思考停止に拍車をかけているのだとしたら、これまで避難を勧めたり、危険性を訴えてきても反応がなかった人たちは、今後さらに何も考えず何もしない方向にいく。自分は無事でいられるだろうとか、どうなってもいいと思うようになると思う。脳障害は等しく全国の人に起こっているのだ。また周りの人との軋轢に耐えきれず、同調したほうが楽と考えてしまう人もいるかもしれない。

正気でいられるうちに、真実を見て、自分や家族がどうすべきかを考えてほしい。もう9カ月の被曝。時間は残されていない。自分がいつまで正気でいられるかすら私たちには分からないのだから。